三笠宮崇仁さま、心不全のため100歳で逝去、昭和天皇の末弟、天皇陛下の叔父、古代オリエント史の研究者としても活躍、戦争末期の44年に陸軍を批判




【2016/11/04最新】 【主報】 (2016/10/27-13:48)
 三笠宮崇仁さま、心不全のため100歳で逝去、昭和天皇の末弟、天皇陛下の叔父、古代オリエント史の研究者としても活躍、戦争末期の44年に陸軍を批判



 昭和天皇の末弟、天皇陛下の叔父で、古代オリエント史の研究者としても知られる三笠宮崇仁(みかさのみや・たかひと)さまが27日午前8時34分、心不全のため、入院先の聖路加国際病院(東京都中央区)で亡くなられた。100歳だった。皇位継承順位は第5位で、明治以降の皇族では最高齢。本葬に当たる「斂葬(れんそう)の儀」は文京区の豊島岡墓地で営まれる。宮内庁は日取りなどの検討を始めた。

 三笠宮さまは急性肺炎と診断され、5月16日から聖路加国際病院に入院していた。逝去を受けて、宮内庁では名川弘一皇室医務主管、加地隆治宮務主管が記者会見した。

 名川氏らによると、入院後1カ月ほどで急性肺炎の症状はおさまり、6月以降は低下した心臓機能の治療が中心となっていた。8月に一時容体が悪化したが、その後回復。27日午前7時40分ごろまで体調は安定していたが、徐々に心臓の拍動が遅くなり、同8時ごろ心停止に陥った。同病院に検査入院中だった同妃百合子さま(93)が最期をみとったという。

 1915年12月2日、大正天皇の四男として誕生。称号は澄宮(すみのみや)。学習院初等科、同中等科を経て陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業。成年を迎えた35年に三笠宮家を創立し、41年10月に子爵・故高木正得氏の次女百合子さまと結婚。太平洋戦争中の43年1月から1年間、支那派遣軍総司令部参謀として中国・南京に赴任し、終戦時は陸軍少佐だった。

 戦後、東大文学部の研究生となり、古代オリエント史研究者の道を歩んだ。日本オリエント学会の初代会長を務め、東京女子大や青山学院大の講師、東京芸術大の客員教授などとして教壇に立ち、テレビやラジオなどにも出演。歴史学者の立場から、連合国軍総司令部(GHQ)の意向で廃止された紀元節復活の動きに反対したほか、戦争末期の44年に陸軍を批判した文書が後に見つかり、反響を呼んだ。

 中近東文化センター名誉総裁、日本・トルコ協会名誉総裁などを務め、国際親善をはじめ、さまざまな分野に貢献。ダンスにも親しみ、普及に尽力した。著書は「帝王と墓と民衆」「古代オリエント史と私」「わが歴史研究の七十年」など多数。

 百合子さまとの間に長男の故寛仁(ともひと)さま、次男の故桂宮さま、三男の故高円宮さま、長女の近衛※子(※ウカンムリの下に心その下に用)さん、次女の千容子さんの5人のお子さまをもうけ、2002年11月に高円宮さま、12年6月に寛仁さま、14年6月に桂宮さまを亡くした。百合子さまの叔父は昭和天皇の侍従長を務めた故入江相政氏。

 11年に結婚70年を迎え、96歳だった12年7月に心臓の僧帽弁の機能回復手術を受けた。15年に100歳を迎えていた。今年1月2日には、皇居で行われた新年の一般参賀に出席。トルコへ赴任する大使と4月8日に宮邸で接見したのが最後の公務となった。

時事ドットコム(引用元)
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016102700154&g=obt















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 16/10/29報 三笠宮崇仁さま、ご逝去




































 16/10/29報 御舟入の儀














 16/11/03報 通夜
























 16/11/04報 斂葬の儀
















































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